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正式名称はマーシャル諸島共和国です。
( The Republic of the Marshall Islands )
首都はマジュロ環礁にあるマジュロになります。
マーシャル諸島は北緯4゜〜 東経160〜175゜に位置しています。
29の環礁(珊瑚礁で出来たリング状の島)は1,225の島と870のリーフで構成されています。島々は大きく二つの列島として分けられ、東側に位置する列島はラタック(マーシャル語で日の出という意味)列島と呼ばれ、西側はラリック(日の入)列島と呼ばれています。首都のあるマジュロ環礁はホノルルの南西約3,700Km、グアムの東約2,500Kmのところにあります。またクワジェリン環礁は世界最大(120Km×32Km)の環礁でもあります。
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181平方キロメートルです。
総人口は約60,000人でマジュロ環礁には約半数が居住しています。
マーシャルの人々は自分達の民族をパシフィックアイランダーと呼んでいます。
また、歴史上の経緯から「祖父が日本人」という日系のマーシャル人も多く、なにより親日家が多い民族です。
年間平均気温は27度で1年を通してほぼ一定であるため、雨季・乾季の区別はあまりはっきりしていません。1〜4月は雨量が少なく、10月下旬〜12月上旬はやや雨が多いです。6月〜10月は風が弱まります。雨は日中より夜間に降る事の方が多です。また一年を通して日差しが大変強く、日焼け止めクリームなどの対策を忘れないようにしてください。
男性はアロハシャツに長ズボン、女性はムームーというスタイルが島民の正装です。街の中では水着や裸で歩くことは禁じられていますので観光で行かれる方はご注意ください。特に離島では、肌の露出を控えるのが好ましいでしょう。
公用語はマーシャル語と英語になります。島民同士の会話はほとんどがマーシャル語、政府機関などの公式書類は英語を使用しています。また歴史上の経緯より、年輩の人には日本語を話せる人も居ますがほとんどは通じません。
食環境は衛生的で問題はありませんが、食料品は見るからに清潔でよく売れている店で買う事をおすすめします。
水道水は飲料用には適しておりませんので、スーパーなどでミネラルウォーターを買われたほうが良いでしょう。
通貨はUSドルを使います。尚、入国時10,000ドル以上の持ち込みには申請が必要です。現地には両替所がないので、日本もしくは経由地でドルを用意しておく必要があります。ホテルや主要なスーパー、レストランではトラベラーズチェックも使うことが出来、又ダウンタウンにあるスーパーにはATMも備え付けてあります。
国際番号 692
市内通話料金は25セント。日本までの通話料金は1分あたり2.5ドルになります。ホテルからの通話料金は2.5ドルに手数料を加算されます。ホテルロバートレイマーズではテレホンカードも販売していますので、ホテルからの国際電話はこちらをご利用されたほうがお得です。
また、大型スーパーでもフォーンカードを手軽に購入する事ができます。
考古学者によるとマーシャルに人が住み始めた形跡が見られるのは現在から2000年ほど溯った時代になります。どのような形で人々が移ってきたかはまだはっきりとはされていませんが、マーシャル人と関連するいくつかの証拠があるという点から、南・南西にある東部メラネシアやキリバスのあたりから起源するのではないかと、おおよその見解で一致しています。
マーシャル諸島は独自な植民地時代の歴史があり、それは初期に触れた西洋の文化やそれらの植民地政策によって作られました。この植民地の歴史が今日のマーシャル諸島の礎を築いたというのは重要なポイントになります。
スペイン人がヨーロッパ人としてはじめて太平洋開拓の航海に踏み出し、(1521年マゼランがグアム島に上陸)18世紀の後半スペインの船がマーシャル諸島を通りました。これが西洋文化との初めての出会いです。これらの出会いを通じて、マーシャルは太平洋の島のなかでも、早いうちに西洋の国とコンタクト・貿易を開始しました。
1788年にはイギリスのキャプテンマーシャルとギルバートが島々に入ってきました。これが後にこの島々がマーシャル諸島と呼ばれるようになるきっかけとなりました。また、イギリス船の1797年ブリタニア、1803年ローラ、1809年エリザベスが次々とやってきました。イギリスに続いてロシア船ルリック(キャプテン−オット・ボン・コッザブー)が1816年から1823年にかけて訪れ、ルリック号の船員であるアーティスト:ルデュウィグ・クリス
と自然学者:アベルバート・ボン・チャミッソの指揮によりマーシャル諸島ではじめて水路学・植物学・動物行動学の研究が行われました。
また1800年代前半に捕鯨者もマーシャルを訪れたが、1850年ごろから灯油が普及し始めたと同時にクジラの油・捕鯨は廃れていきました。1857年最初の使者達がハワイからニューイングランドの使者達と一緒に到着し、初めに彼らが仕事を始めたのはエボン環礁でした。使者たちは徐々に活動範囲を広め、19世紀の終わり頃にはすべての環礁に協会を設立しました。
今日、キリスト教と西洋文化がマーシャルの社会の重要な部分となっています。1850年代にドイツもまたマーシャルに入ってきました。アドルフ・キャペルはドイツ人商人で1859年にサモアからエボン環礁にたどり着きました。キャペルはポルトガル人ジョー・ディブラムと提携しマーシャルで始めて貿易会社を作り、また始めてのヨーロッピアン家族の移民となりました。彼らが1885年に設立したジャルートカンパニーは貿易会社と植民地管理局という二つの仕事をこなしていました。ジャルートカンパニーの発展につれ、ついにドイツがマーシャルの保護国と宣言し、首都をジャルート環礁のジャボアーに置きました。
第一次世界大戦で敗戦することにより、ドイツの支配は29年で終えました。大戦中、マーシャルに軍隊を送り込み、島々を占拠して行った日本が1914年10月から統治を行いました。日本は人口の増えていたジャルートとマジュロを拠点とし、ジャルートカンパニーを南洋貿易会社と改名して運営を続けました。1922年、日本は国際連盟からクラスCという称号を(マーシャル諸島を含む)ミクロネシアに与えられました。しかし、1933年日本は国際連盟から脱退し、1930年代いくつかの環礁で軍備を固め始めました。
太平洋やマーシャルでの激戦の末、日本は第二次世界大戦に敗れ、1945年マーシャルはアメリカの支配下に置かれました。国際連合によりマーシャル諸島(他に北マリアナ諸島、パラオ、ヤップ、トラック、そしてポンペイも)は1947年にアメリカ軍の信託統治領となったのです。1951年にマーシャルの所有権は、アメリカ軍から内務省へと移行される事となりました。
1970年代中期から後期、まだアメリカの信託領であったが、マーシャル国内から独立に向けての動きが強まってきました。そしてついに1986年アメリカとの関係を自由連合と改めマーシャル諸島共和国へと国家を築き上げました。
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